The Jmail Phoenix
灰の中から生まれた、
無料メールの物語。

Jmailは、余裕の中から生まれた新規事業ではありませんでした。 それは、最初の日本インターネット事業が崩れたあと、 現金も、信用も、時間も足りない場所から生まれた再起のサービスでした。

第16章「The Jmail Phoenix」は、Jmailを成功談としてではなく、 焼け跡からもう一度立ち上がろうとした人間たちの記録として読むべき章です。

これは「新サービス誕生」の章ではありません。これは「倒れたあとに、まだ作る」の章です。

「The Jmail Phoenix」は、表面的には無料メールサービスの誕生物語です。 しかし、深く読むと、それはもっと厳しい章です。 事業が傷つき、現金がなくなり、仲間が去り、信頼回復の途中で、 それでも次の一手を探す人間たちの章です。

Jmailは、豊かな資金調達のあとに生まれたサービスではありません。 完璧な開発体制、安定したサーバー環境、十分な広告予算、整った運用チーム。 そうしたものがそろっていたわけではありません。

残っていたのは、.co.jp ドメインのコレクションと、まだ消えていない起業家の執念でした。 そこから、無料のバイリンガル・ウェブメールを作る。 しかも、日本語が文字化けしないようにする。 そして、利用者が好きなドメインを選べるようにする。

Jmailは、勝利のあとに生まれたサービスではありません。
敗北のあとに、それでも立ち上がろうとしたサービスでした。

だからこそ、この章には明るさと苦さが同時にあります。 Launchの興奮。 ユーザーが増える音。 Little Blueのばかばかしいほど楽しい火花。 そして、ずっと残る資金難、ブラックリスト、運用責任、利用者への未払いの説明。

現金はない

章は、資金が戻っていない状態から始まります。 夢だけではサーバーは動きません。 しかし、夢がなければ次のサービスも生まれませんでした。

ドメインはある

残された .co.jp ドメイン群は、単なる資産ではなく、 利用者が選べるメールアドレスの世界に変わる可能性を持っていました。

責任が残る

Jmailは多くの利用者に届きました。 しかし、届いたぶんだけ、守るべき受信箱とアドレスも増えていきました。

Jay Smith が日本を離れる前、Jmailは昼食の席で生まれました。

章の中で、Jmailの誕生は劇的な会議室ではなく、Jay Smith が日本を離れる前の最後の昼食として語られます。 そこで決まったのは、残されたドメイン名を使って無料メールサービスを立ち上げることでした。

この場面は、とても重要です。 なぜなら、Jmailは「新会社のきれいな企画」ではなく、 失われたもののあとに、まだ手元にあるものを見つめ直した結果だったからです。

ドメイン名は、当時のインターネットでは非常に強い意味を持っていました。 japan.co.jp、hollywood.co.jp、yokozuna.co.jp、california.co.jp。 それぞれは、ただのURLではなく、言葉であり、看板であり、個性でした。

その個性をメールアドレスに変える。 つまり、@ の後ろ側を利用者が選べるようにする。 ここにJmailの根本的な発想がありました。

Jmailは、メール機能から始まったのではありません。
「どんな住所を名乗れるか」という発想から始まりました。

Jay Smith

去る人がいる時に、次のサービスが生まれた。

人が離れていく局面で生まれたサービスだからこそ、Jmailには再起の匂いがあります。 それは明るい起業ではなく、踏みとどまる起業でした。

Domain Collection

残されたドメイン群が、次の燃料になった。

Jmailは、残された .co.jp ドメインをメールアドレスに変えることで、 失われた事業資産に新しい意味を与えようとしました。

メールサーバーを動かすだけでは足りませんでした。日本語を壊さない必要がありました。

Jmailを作るうえで、最大の技術的な壁のひとつが日本語でした。 メールサーバーを動かすことだけでも大変でしたが、日本語が文字化けしてしまえば、 日本の利用者にとってサービスにはなりません。

文字化けは、単なる見た目の問題ではありません。 書いた言葉が、意味のない記号になる。 受け取ったはずのメールが読めない。 仕事の連絡も、友人からの言葉も、家族の近況も、意味を失う。

第16章では、この日本語処理の困難さが、試行錯誤として語られます。 それは、初期インターネットの日本語サービスが避けて通れない現場の格闘でした。

日本語が読めなければ、Jmailは日本のメールサービスにはなれませんでした。

そして、この技術的な苦労は、後の謝罪にもつながります。 技術は夢を実現するための道具です。 しかし、メールを扱う技術は、利用者の言葉と時間を預かる技術でもありました。

Mojibake

文字が壊れる

文字化けは、日本語メールの信頼を壊します。 Jmailの技術課題は、機能追加ではなく、言葉を守ることでした。

Webmail

ブラウザで読む

当時、ブラウザ上でメールを扱うこと自体が新しい体験でした。 どこからでも読めることが、ウェブメールの魅力でした。

Bilingual

英語と日本語

Jmailは、日本語だけでも英語だけでもない場所を目指しました。 そこには、日本のインターネット黎明期らしい国際性がありました。

最初のJmailは、寄贈されたSun MicrosystemsのSparc 5で動きました。

Jmailの初期システムは、豪華なデータセンターから始まったわけではありません。 本の中では、Sun Microsystemsから寄贈されたSparc 5サーバー上で動いたことが語られます。

このサーバーの存在は、Jmailの性格をよく表しています。 あるものを使う。 足りないものを工夫で埋める。 完璧な準備を待たずに、まず動かす。

しかし、そこには危うさもありました。 無料メールは、利用者が増えるほど負荷が増えます。 メールボックスが増える。 保存データが増える。 ログインが増える。 送受信が増える。 サーバーは、夢の大きさに比例して重くなっていきます。

最初のサーバーは、希望を動かしました。
しかし、希望はすぐにサーバーの容量を超えはじめました。

Shimodaで、Jmailは事業計画になりました。

Jmailの物語には、ShimodaのErnest Houseという場所が登場します。 Nishida-san とともに滞在し、Appleのコンピューターが置かれたロビーを仕事場にして、 Jmailの事業計画を書いた時間です。

この場面には、不思議な明るさがあります。 会社は苦しい。 未来は不安定。 それでも海の近くで、バーのある宿に泊まり、仕事をし、企画を作る。 起業には、こういう矛盾があります。

追い込まれているのに、妙に楽しい。 苦しいのに、次のアイデアには熱がある。 人から見れば逃げ出すべき状況でも、当事者にはまだ進む理由が見えている。

Shimodaの場面は、Jmailが単なるサービスではなく、 もう一度前に進むための精神的な拠点でもあったことを示しています。

海辺で書かれた事業計画には、苦しさと希望が同じ紙に載っていました。

Nishida-san

逃げずに残った人

給与を払えない週に入社した人が、それでも会社の方向性と精神を見て残る。 Jmailには、そういう不思議な忠誠と熱がありました。

Ernest House

海辺の計画書

Shimodaで作られた事業計画は、Jmailを単なる思いつきから、 Launchするべき事業へと変えました。

JmailのLaunch日は、1998年5月1日でした。

東京へ戻ったチームは、JmailのLaunchを1998年5月1日に決めます。 ただし、ここでも現実は厳しいものでした。 Japan Telecomとのホスティング契約が終わり、サーバーを日本ではなくカリフォルニアへ移す必要がありました。

JmailのSparc 5サーバーは、Marina Del ReyのSoftaware hostingへ運ばれます。 本の中では、サーバーをダクトテープで巻いて持ち込む場面が語られます。 これは笑える場面であり、同時にJmailの危うさを象徴する場面でもあります。

世界を変えるような顔をしているサービスが、実際にはテープで支えられている。 初期インターネットの多くは、そういう現場でできていました。

Jmailは、きれいな機械室からではなく、ダクトテープの現実からLaunchしました。

その現実の中で、Burzin Engineer がチームに入り、Jmailを動かします。 時給75ドルで雇われた技術者が、JmailのLaunchを現実にしました。

Softaware

Marina Del Reyのホスティング

日本でのホスティングが失われたあと、Jmailのサーバーはカリフォルニアへ移されました。

Burzin Engineer

動かした技術者

Burzinの参加によって、Jmailは実際に稼働するサービスへと進みました。 彼はこの章の重要人物です。

Duct Tape

起業の現実

ダクトテープで支えられたサーバーの描写は、 夢と現実が同時にあるJmailらしい場面です。

初日10人。二日目20人。その音が、チームを生き返らせました。

Launch初日、Jmailには10人の利用者が登録しました。 数字だけ見れば小さく見えるかもしれません。 しかし、倒れたあとに立ち上げたサービスに、最初の10人が来たことは大きな勝利でした。

二日目には20人。 その後も登録は増えていきます。 チームは、新しい利用者が登録するたびに励まされました。

本の中には、Togoshi Ginzaの古い木造住宅で、 新規ユーザー登録のたびに音が鳴る場面が出てきます。 その音は、単なる通知音ではありませんでした。 「まだ終わっていない」という音でした。

ひとつの音が、新しい利用者を知らせました。
そのたびに、Jmailは少しだけ生き返りました。

Day One

10人

初日の10人は、Jmailが空想ではなく、実際に利用者を持つサービスになった瞬間でした。

Day Two

20人

二日目の20人は、偶然ではなく伸びているという感覚をチームに与えました。

古いMacが鳥かごになり、小さな青い鳥がJmailを広げました。

第16章の中でも、Little Blueの場面は特にJmailらしい場面です。 Paulが古いMacを鳥かごに変え、ウェブカメラで小さな青い鳥を見せ、 世界中の人がその鳥に言葉を教えようとする。

いまなら、動画配信やライブカメラは珍しくありません。 しかし、当時は違いました。 ブラウザの向こうに、生きている小さな鳥がいる。 自分の入力が、どこか遠くの現実とつながっているように感じる。 その不思議さが人を呼びました。

MacFanがこの話題を取り上げ、Jmailには多くの訪問者が来るようになりました。 Little Blueは、広告ではありませんでした。 それは、Jmailらしい口コミの火花でした。

Little Blueは、マーケティング計画ではありませんでした。
でも、人に話したくなるインターネットでした。

この小さな鳥の物語は、Jmailの魅力と危うさを同時に表しています。 面白いことをすぐにやる力。 人を驚かせる力。 そして、人が来たあとに、それを受け止める運用力が必要になるという現実です。

Paul

古いMacを鳥かごにした男

Jmailには、まじめな事業計画だけでなく、こうした奇妙な創造性がありました。

MacFan

紙の雑誌がウェブを広げた

当時、ウェブの話題は雑誌で広がる力を持っていました。 Little Blueはその時代をよく表しています。

Kuchi-komi

口コミの爆発

Little Blueは、Jmailに広告ではない流入をもたらしました。 人が人に話したくなることが、最大の宣伝でした。

1998年7月6日、Jmailは「snazzy addresses」として紹介されました。

Jmailが世に知られていくうえで大きかったのが、Asahi Evening Newsの記事です。 そこでは、Jmailが無料のバイリンガル・ウェブメールであり、 利用者が130以上のアドレスから選べるサービスとして紹介されました。

記事の核心は、Jmailがただメールを提供したのではなく、 メールアドレスを「vanity affair」にしたという点でした。 つまり、メールアドレスが機能だけでなく、自己表現になったということです。

hollywood.co.jp を選べば、Hollywoodの住所を持つ気分になれる。 yokozuna.co.jp を選べば、横綱の名前をメールアドレスにできる。 japan.co.jp や california.co.jp を選べば、自分の興味や憧れを住所にできる。

これは、SNSのプロフィールが一般化する前の、早いインターネット・アイデンティティでした。

Jmailは、受信箱を配っただけではありません。
人が名乗るための住所を配りました。

130+

選べるアドレス

130以上のアドレス候補は、Jmailを普通の無料メールではなく、 選ぶ楽しさを持つサービスにしました。

Fun / Business / Places

分類された住所

楽しさ、仕事、場所。 ドメインの分類そのものが、メールアドレスをライフスタイルの選択にしました。

Anywhere

どこからでも読める

Web-based E-mailは、会社や家庭の一台のPCに縛られないメール体験を提示しました。

Jmailは、世界的なウェブメールの潮流の中にありました。

1997年12月、MicrosoftがHotmailを買収したことは、ウェブメールの時代を強く印象づけました。 ブラウザからメールを使う。 どこからでもアクセスできる。 会社や家庭の環境に縛られない。 その発想が、世界的に大きくなっていた時期でした。

Jmailは、その潮流を日本語と .co.jp ドメインの文脈で実行しようとしました。 ただのHotmailコピーではありません。 日本の利用者、日本語の問題、会社や家庭の共有PC事情、 そしてドメイン名を自己表現に変える発想がありました。

Asahi Evening Newsの記事では、日本の家庭における共有PCや、 会社のメールアドレスに依存する状況にも触れられています。 つまり、Jmailは「無料だから便利」というだけでなく、 個人のメール空間を持つためのサービスでもありました。

Jmailは、世界のウェブメール潮流を、
日本語と .co.jp の感覚で受け止めたサービスでした。

Jmailは、2,000人から、15万人へ、そしてさらに先へ伸びていきました。

Asahi Evening Newsの記事では、Jmailが1998年6月中旬に2,000人を超えていたことが紹介されます。 その時点で、ほとんど広告なしの成長でした。

本の後半では、Jmailが夏にはさらに伸び、1999年夏には150,000人の無料メール利用者を持つまでになったことが語られます。 その後、Jmailは最終的に960,000人近くまで成長し、 2002年には毎日6,000人の新規利用者が増えていたと記録されています。

これは大きな達成です。 しかし、Jmail.co.jpでは、この数字をただ誇りとして扱うことはしません。 数字が増えることは、責任が増えることでもあるからです。

960,000人という数字は、成功の数字であると同時に、
守るべき受信箱の数でもありました。

1998年5月1日

Jmail Launch

無料のバイリンガル・ウェブメールとしてJmailが始まりました。 初日の登録者は10人。小さく、しかし確かな出発でした。

1998年5月2日

二日目20人

新しい登録者が増えるたび、チームには「まだいける」という感覚が戻っていきました。

1998年初夏

Little Blue

古いMacと小さな青い鳥のウェブカメラ企画が話題となり、口コミがJmailを押し上げました。

1998年6月中旬

2,000人超

Asahi Evening Newsの記事では、Jmailが広告をほとんど使わずに2,000人を超えたことが紹介されました。

1998年7月6日

Asahi Evening News

Jmailは、無料バイリンガル・ウェブメールであり、利用者が130以上の住所から選べるサービスとして紹介されました。

1999年夏

150,000人

Jmailは150,000人の無料メール利用者を抱えるまでになり、さらに増加を続けていました。

2002年

960,000人へ

Jmailは100万人には届かなかったものの、960,000人近くまで成長し、毎日6,000人の新規利用者を得ていたと記録されています。

Robert Roche の投資は、Jmailを速くしました。しかし、広告の扉は開きませんでした。

Jmailが成長するにつれ、問題はマーケティングからハードウェアと運用へ移っていきます。 利用者が増えれば、サーバーを増強しなければなりません。 そのために、Robert Roche から250,000ドルの投資が入り、Jmailの10%が売却されたと語られます。

この投資によって技術は改善し、メールサービスは速くなりました。 利用者の反応もさらに良くなりました。 しかし、JPNICブラックリストの影響は残り、広告主は動きませんでした。

ここに、Jmailの苦しさがあります。 利用者は増える。 技術は改善する。 サービスとしての魅力はある。 しかし、収益化の扉が開かない。

Jmailは利用者には届きました。
しかし、広告市場には届きませんでした。

無料サービスにとって、これは致命的な構造でした。 利用者が増えるほどコストは増えます。 しかし、収益が追いつかなければ、成長そのものが負荷になります。

$250,000

技術増強の資金

Robert Rocheの投資は、Jmailの技術基盤を強化し、サービス速度を改善するために使われました。

10%

Jmailの持分

投資の対価として、Jmailの一部が売却されました。 これは成長のための資金調達でした。

Blacklist

広告主が動かなかった

利用者成長があっても、広告主がブラックリストを越えて動かなければ、 無料サービスの経済は厳しくなります。

Jmailは、メールだけでなく無料ウェブサイトへも広がりました。

本の中では、Burzinとともに、各メールアドレスに無料ウェブサイトを提供する試みも語られます。 これは、Jmailを単なるメールサービスから、より広い個人発信の場所へ広げる発想でした。

1998年前後のインターネットでは、個人ホームページは重要でした。 自分のページを持つこと。 自分のメールアドレスを載せること。 リンクを置くこと。 掲示板を持つこと。 そこには、今のSNS以前の自己表現がありました。

Jmailの無料ウェブサイト構想は、その時代とよく合っていました。 メールアドレスを選び、自分のウェブの居場所も持つ。 それは、Jmailのアイデンティティ思想をさらに進めるものでした。

Jmailは、受信箱だけではなく、
小さなウェブ上の居場所まで作ろうとしていました。

Jmailには、本当に人を動かす何かがありました。

Jmailの物語には、確かな光があります。 10人、20人、50人。 音が鳴るたびに増える利用者。 Little Blueを見に来る人々。 Asahi Evening Newsの記事。 130以上のアドレス。 150,000人。 960,000人。

これらは、ただの数字ではありません。 Jmailの発想が人に届いた証拠です。 メールアドレスを選ぶ楽しさ。 会社や家庭のメールから離れ、自分のアドレスを持つ自由。 日本語で使えるウェブメール。 そうした価値が、利用者に届きました。

Jmailは、面白かったのです。 早かったのです。 そして、当時のインターネットの空気に合っていました。

Jmailが広がったのは、偶然だけではありません。
人が本当に欲しがる何かが、そこにありました。

しかし、広がるほど、守るべきものも増えました。

Jmailの光を語るだけでは、この章を読み違えます。 利用者が増えることは、成功であると同時に責任の増加でした。

無料メールサービスは、利用者にとっては気軽です。 しかし、運営側にとっては重いサービスです。 メールボックスを預かる。 アカウントを管理する。 サーバーを止めない。 日本語を壊さない。 メールを失わない。 終わる時には説明する。

Jmailは、その責任を最後まで十分に果たせませんでした。 だから、Jmail.co.jpでは、第16章をただ英雄的な再起物語として扱いません。

これは、夢の章であり、同時に謝罪の章です。

利用者が増えるたびに、Jmailは成功しました。
利用者が増えるたびに、Jmailの責任も重くなりました。

ごめんなさい。

Jmailを作った側から見れば、第16章は再起の章です。 灰の中から立ち上がり、無料メールサービスを作り、利用者を集めた章です。

しかし、Jmailを使ってくださった皆さまから見れば、 もっと大切なのは、そのサービスが最後まで守られたかどうかだったはずです。

私たちは、それを十分に果たせませんでした。

メールアドレスを選び、受信箱を使い、日々の言葉を預けてくださった皆さまへ。 最後まで守りきれず、十分な説明を届けられず、きちんとした別れを用意できず、 本当に申し訳ありませんでした。

Bradley L. Bartz Jmail.co.jp 創業者 Internet Access Center K.K.

Jmail Phoenixは、ただの昔話ではありません。

この章を今読む意味は、懐かしさだけではありません。 それは、インターネット事業における責任の教訓でもあります。

サービスは、作れば終わりではありません。 利用者が来た瞬間から、責任が生まれます。 無料であっても、責任は無料ではありません。 メールであれば、その責任はさらに重くなります。

Jmailは、非常に早い時期に、メールアドレスを自己表現に変えようとしました。 その発想は今でも価値があります。 しかし、その価値を支える運用力、資金力、説明力、終わり方の設計が十分ではありませんでした。

だから、この章は、起業の勇気だけでなく、起業の未熟さも教えてくれます。

Phoenixは、よみがえる鳥です。
しかし、よみがえったあとに、誰を守るのかが問われます。

教訓 01

成長は責任である

利用者が増えることは拍手ではありません。 守るべき人、データ、時間が増えるということです。

教訓 02

無料でも重い

無料サービスは軽く見えます。 しかし、利用者が日常を預けた瞬間から、その責任は重くなります。

教訓 03

終わり方も設計である

サービスには終わりがあります。 その時、説明、移行、別れをどう用意するかも、運営の責任です。

本を読む

この章は、『Japan.co.jp — Hardhat Required』の中にあります。

第16章「The Jmail Phoenix」は、Jmailがどのように生まれ、 どのように広がり、なぜその物語が今も重い意味を持つのかを知るための章です。

Jmail.co.jpでは、この章を成功談としてだけではなく、 旧利用者の皆さまへの謝罪とともに読み直します。

起業の物語を読む
Bradley Lawrence Bartz 著『Japan.co.jp — Hardhat Required』表紙

謝罪

ごめんなさい

Jmailを使ってくださった皆さまへの謝罪文です。

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現在

メールサービスではありません

現在のJmail.co.jpでできること、できないことを明確に説明します。

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歴史

Jmailの歴史

Jmailが生まれた背景と、その後の歩みを記録します。

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